アルバム『W.O.R.L.D.』の曲順としては《漸近自由》(8番目)→《世界所有的爛漫》(9番目・最後)とくるのだけど、《世界所有的爛漫》は抽象度が高いような気がしてて、それゆえこの曲だけ知ったときよりも《漸近自由》からの流れで「あぁ、そういうことだったのかなぁ」となんとなく納得している感が強いのです。
あんまりきちんとまとめられそうにないのですが雑感という形で思ったこと感じたことを書いていきます。
まず最初に総論というか私が感想として一番強いのはこれだ!ということを書いておくと、
ざっくりな表現ですが、「孤独だけどひとりではない」ということです。
前作『emo了』では愛(これもただ恋愛ということだけではなくもっと広い意味で)のためになにか大きなものへ抗うといった側面が強かったかなと思うのです。
そういう「抗い」を通して知ったのは、私たち(熊猫堂と飼育員、あるいは飼育員同士でもある)は同じような傷や痛み、同じような感覚や考えを抱えていたということだったように思います。
でもあくまで「同じような」であって、「同じ」ではない。
そうなると「分かりあえなさ」がうっすらと見えてきてしまう。
私達は似てるけど違うのだと思い知ることになる。
でもそれでもいいのです。
抗いへの行動原理が同じだった。それが私たちが一緒にいる意味になる。それが手をとりあう理由になる。
一緒にいる、手をとりあう、と言ってもそれは物理的な距離を問題にしない。
任漫天流言或蜚语
从来 不曾 在意
喧哗之中只看见你
何を言われようとも一度も気にしたことはない
騒がしくても君しか見ていない
《漸近自由》のこの箇所を聞いていると
說你愛我 憑什麼任世界胡說
我反對 誰模糊愛人的輪廓
愛してるって言ってくれ どうして世界はでたらめばかり
俺は反対する 恋人の輪郭はぼやけさせない
《就算與全世界為敵也要跟你在一起》のこの箇所がオーバーラップしてくるのです。
世界はでたらめ(流言或蜚语)ばかりだって考えると、そんな中にいるなんて本当は怖いし逃げだしたくなる。
でも愛してると言ってくれる人がいるなら雑音だらけの中でもその人のことだけ見ていればいい。
そうすることで自分を保ち、世界へ抗いながら生きていくことが叶う。
だんだん自由になる愛とはそういう、温かく誰かを照らす灯のようなものな気がします。
そして次に《世界所有的爛漫》のほうへ目を向けてみます。
「爛漫」を中国語の辞典でひいたところ「色鮮やかである」あるいは「気取らない、無邪気である」という意味の形容詞として載っていますが、ここでは前者であろうと予想しています。
しかし「色鮮やかさ」であるなら「見えないうちに接近できる」「見えないうちに耳元まで訪れてくる」のはちょっとおかしいのではとも読めるのですが、
この「世界所有的爛漫」においては「色鮮やかさの経験・体験」が大きな意味をもつのだと思うのです。
MVの舞台は雪山の、ほとんどモノクロに近い風景が広がっている場所でした。
そんななかで「世界中の爛漫さ 見えないうちに接近できる これほどの美しさ 永遠に輝かしい」と歌うことは、「爛漫さ」が少なくとも「色彩の豊かさ」を指すのではないことが言えるのではないでしょうか。
たとえば鬱陶しい霧や極夜の闇、そういうものもおそらく「爛漫」でしょう。
目に映るだけではない、そこにあるものすべてが「爛漫」であり世界のどこへ行こうがそういった「爛漫」を経験することになる。
「爛漫」の経験は自分だけのものであって誰かと同じものはない。
でも「爛漫」を経験した人はその経験を誰かに伝えることができる。
歌や踊り、言葉といったあらゆる表現で伝える。
それを伝えるほうは自分だけの経験として伝えるし、受けとるほうも相手の固有の経験として、すべて理解できるわけではないと思いながら受けとる。
この時、お互いはそれぞれ孤立した人間だけどひとりぼっちではない。
恐ろしく凍えるような雪原でも身体は熱を持って生命を保ち、「爛漫」を経験する。そしてそれを誰かに伝えようとする。
物理的に近くはないけれど愛する人がこの世界にいる、実際に一緒に生活してる訳じゃないけど一緒に生きている人がどこかにいる。
孤独だけどひとりではない。
そんなことを感じた《世界所有的爛漫》と《漸近自由》でした。