推しを「愛する」って難しくね?って話
先日TLを眺めていて「何かを愛するとは、ある存在をそのままの姿で受容すること」というツイートが目にとまりました。
若松さんのこのツイートは「推し」にまつわるさまざまな対立を考える上でも示唆的で、推しの「ある側面」だけを選り好みする身勝手さ対して、私は「推し」を丸ごと愛したいと願うファンもいるわけです。 https://t.co/O9N0Ow2pJc
— 鳥羽和久 KAZUHISA TOBA (@tobatoppers) May 6, 2022
ある側面だけが好きって確かに身勝手なことで、勝手にこんな人だってイメージして期待しておいて思ってもなかった一面を見て勝手に失望するなんてされた方からすれば迷惑な話です
ただ推しって最初から全部見せてくれる訳じゃないし、戦略上売りたいイメージを強調するのは当然で、基本的にはいいところを見せようとするものじゃないですか。
それでそのままの姿を受容することが愛することだって言われてしまうと、真の意味で推しを愛することなんてできるのか分からなくなってしまいます。
推しにどんな顔があるのか知ろうとして踏み込むような真似はしません。それは当然のことです。
でもわからない。知らなかった推しの顔を見てもそれをそのまま愛せるかどうかなんてわからない。
つまりは愛することに絶対の自信なんて持てないのです。いつ崩れたっておかしくない地盤の上に愛を誓う碑を立てているような気がしてしまうのです。
普段はそんな気持ちは片隅に追いやりながら、私は推しを愛しているとのたまっている。
だってそんな不安は表明しないほうがお互い幸せじゃないですか?
「愛してるよ(今のところは)」なんて、正直だけど誠実ではないと思うのです。
推しへの愛が揺らぐことは、ファンやり続けてたら大なり小なり経験することなのかもしれない。
揺らぎを踏み越えていく覚悟をもたなきゃ推し続けられないのかもしれない。
推しのすべてを愛したいと願ったとして、その願いを叶えるのは他でもない自分自身なのではないでしょうか。
とはいえ自分自身を律することができる人ばかりじゃないし、推しへの愛という執着から離れなきゃ苦しくなってしまうことだってある。それでファン失格の烙印を押されるのはあまりに優しくない。
やはり自分が健康でなければ他人への感情をどうにかする余裕は持てないでしょう。
推しは他者。ただそこに存在するだけなのです。あとのことは私の気持ち次第なのです。
自分で書いておいて推し活ってやはり修行なのだわと思わずにいられません…辛気臭くなってきたから盤他のMVでも見よう…。