てんてんと

へなちょこアラサー既婚女の世迷いごと

自分の背骨を取り戻す

『推し、燃ゆ』という小説の紹介のなかに「逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ」というフレーズが目についた。

この本、長らく気にはなっていたがいまだに読んでいない。

 

立って生活するのに背骨は必要だ。

そう考えると推しは背骨と言うのは共感できる人も多いだろうと思う。推しは生活の一部でライフラインだと、私もそう思っていた。

 

私はメンがヘラってる自覚がある。健康な人間はそんなことしねぇんだよなと思うようなことも過去にたくさんしてきた。まぁそれは別にいい。

 

ただ推しの話をしているときの私は一介のオタクなのだ。どこにでもいる人間なのだ。

メンがヘラってる人間自体はどこにでもいる。スーッとなめらかにワンオブゼムになれる居心地の良さは心療内科やらなんやらでは見いだせなかった。しかし推し活のなかにはあったのだ。

 

話がとっちらかってしまうがここ数日推しの断食をしている。

それ以前から推しを見ても可愛いともなんとも思わない、感情が凪になることが度々あった。

これはなんだと疑問に思った。

私の出した結論としては今は身体が推しからの栄養を求めていないということだった。

なのでしばらく推しを断つことにした。栄養が必要になるまで待つことにした。

 

そうしたところ私はどうなったかというと、普段以上に本を読んだ。映画も観た。そして興味をもてることが新たに増えていった。

もしかして私の背骨ってこれだったんじゃないか。私の背骨は広い意味で「考えること」であって、推し自体ではなかったのかもしれない。

 

背骨とは私自身を「いかにも人間らしく」振る舞って見せるために自分の身体にあるべきもののように思える。

誰かとの境界線を溶かしてワンオブゼムとなるのではなくて、むしろひとりになることが私の背骨を守るために必要だったのかもしれない。