てんてんと

へなちょこアラサー既婚女の世迷いごと

推しがしんどい

私が10代の頃に「推し」という言葉は無かったけれど、それに相当する人はいた。
当時も夢小説を渉猟するなどして妄想に拍車をかけまくる日々だったのだけど、中学生のそれなんてずいぶんかわいらしいものだと今なら笑える。まぁ黒歴史だけど。
そしてそういう存在と無縁の20代を過ごし、30代になってまた急に「推し」ができてしまった。どうにも推しという存在への姿勢が定まらない。ずっとすわりが悪い。
 
「いや落ち着け。推しと私は他人だ」と自らに言い聞かせたり、「厄介なことに『推しが幸せならそれで良いけど本音を言うと私の手で幸せにしたい』って業を背負いしオタク」略して厄介オタクになったりともうめちゃくちゃだ。山月記ならとっくに虎になってる。
 
推しを愛でてるとき、自分の性的嗜好の気持ち悪さを思い知らされることがある。
私の好きなタイプはというと「目力の弱いオタク眼鏡くん(かわいい)」で、これは推しにも当てはまる部分がある。
そう、「部分がある」だけなのだ。
 
「この人が好きだ」と思って見ているとごく微細な部分まで好きだと思ってしまう。
些細な発言、何気ない仕草、限局的な身体のパーツ…に価値を見出しては「好き」をぶつけてしまう。
こういう「好き」をぶつける行動に熱狂してる間、そのあまりに一方的すぎる行動に本心では恐れも嫌悪も感じている。
「こんなことでも好きだと思ってしまう」「こんなに好きを投げつけてしまっている」ことに、私は自分感情の暴発・乱射を見ている。
「全体」など知る由のない相手なのだから、どれほど好きでも「部分」でしかない。
 
ってああああああもううううう!!!!
なんなのこのダルいオタク!!うるさい!!ごちゃごちゃ言って拗らせて!!面倒くさい面倒くさい面倒くさいぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!
 
疲れたよパトラッシュ…僕もう疲れちゃった…「好き」ってなんでややこしくなるんだろうね…とりあえず寝るね…おやすみ…