てんてんと

へなちょこアラサー既婚女の世迷いごと

死刑にいたる病観てきた

端的に言って、気持ちがぐちゃぐちゃになりました。

榛村の見せる顔が人当たりの良いパン屋のおじさんとシリアルキラーとを行ったり来たりする様が、本当に上手で説得力があるのです。こんな恐ろしい殺人鬼なのにどうしても魅力的で、底知れない暗さがある目をして見せたかと思えば主人公の筧井に柔和に微笑み彼を慈しむような様子が自然で「本当に筧井くんだけは特別な存在だったのか…」と思ってしまうほどでした。
阿部サダヲさんの演技力ってまじでとんでもないんだな…と思わざるをえなかったです。

あと話が展開していくうちに筧井が抱いてしまう他人への疑惑であったりが私の思い込みを揺さぶってきて「もう人間不信になる!!!!」と叫びたくなるほどでした。
これは気持ちがグッタリする要素でした。


この作品を見終えて反芻していると「私があちら側に行くことは絶対にないと言い切れない怖さ」を感じました。

筧井はわりとどこにでもいそうな無気力大学生なのです。ただ話の展開していく途中で、人が変わったかのような攻撃的な行動をとったのです。
鑑賞中はうわぁ…と思った程度だったのですが、思い返すと普通に平凡に生きていたつもりの人間が不意にその道から外れていく可能性って充分あるのだと感じる場面でもあります。
そこで榛村が言うのです「こっち側に来たら戻れなくなるよ」と。

面会室での榛村と筧井は、ガラスに反射した相手の顔が重なるような描写が何度もありました。
こちらとあちらの境界を隔てる壁はさほど大きくも厚くも無いのかもしれません。

私にもかつて、殺そうと思っていた人間がいたのを思い出しました。
結局しませんでしたが、当時のことを思い出すと何が銃爪となってもおかしくなかったろうと思います。
榛村のような理由ではなくとも、あちら側に行く可能性は私も持っていたことを筧井を通して見せつけられたのです。
そして一個人に内在する良心や倫理の脆さをどうしても思ってしまう。

私は今後この映画のことを思い出すことが何度もあるような予感がしています。
それは多分私があちら側の深淵を覗こうとしている時でしょう。

推しを「愛する」って難しくね?って話

先日TLを眺めていて「何かを愛するとは、ある存在をそのままの姿で受容すること」というツイートが目にとまりました。


ある側面だけが好きって確かに身勝手なことで、勝手にこんな人だってイメージして期待しておいて思ってもなかった一面を見て勝手に失望するなんてされた方からすれば迷惑な話です


ただ推しって最初から全部見せてくれる訳じゃないし、戦略上売りたいイメージを強調するのは当然で、基本的にはいいところを見せようとするものじゃないですか。

それでそのままの姿を受容することが愛することだって言われてしまうと、真の意味で推しを愛することなんてできるのか分からなくなってしまいます。

推しにどんな顔があるのか知ろうとして踏み込むような真似はしません。それは当然のことです。

でもわからない。知らなかった推しの顔を見てもそれをそのまま愛せるかどうかなんてわからない。

つまりは愛することに絶対の自信なんて持てないのです。いつ崩れたっておかしくない地盤の上に愛を誓う碑を立てているような気がしてしまうのです。

普段はそんな気持ちは片隅に追いやりながら、私は推しを愛しているとのたまっている。
だってそんな不安は表明しないほうがお互い幸せじゃないですか?
「愛してるよ(今のところは)」なんて、正直だけど誠実ではないと思うのです。



推しへの愛が揺らぐことは、ファンやり続けてたら大なり小なり経験することなのかもしれない。

揺らぎを踏み越えていく覚悟をもたなきゃ推し続けられないのかもしれない。

推しのすべてを愛したいと願ったとして、その願いを叶えるのは他でもない自分自身なのではないでしょうか。

とはいえ自分自身を律することができる人ばかりじゃないし、推しへの愛という執着から離れなきゃ苦しくなってしまうことだってある。それでファン失格の烙印を押されるのはあまりに優しくない。

やはり自分が健康でなければ他人への感情をどうにかする余裕は持てないでしょう。

推しは他者。ただそこに存在するだけなのです。あとのことは私の気持ち次第なのです。


自分で書いておいて推し活ってやはり修行なのだわと思わずにいられません…辛気臭くなってきたから盤他のMVでも見よう…。


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人には人の乳酸菌。根暗には根暗の乳酸菌。

熊猫堂の《衝刺》をきっかけになんだか色々と考えてしまっている。

夢とか希望を持つのは昔から苦手だった気がする。子供ながら家庭の中での役割を背負わされているのを感じていて、それに応えなければ自分の存在価値はないと思っていた。
結果として「自分はこうしたい、こうなりたい」というのが思い浮かべることが出来なくなっていった。

散々な経過をたどってようやく気づけたことは私のことを救えるのは私自身しかいないということだった。
どんなに良い友人がいても、素晴らしい音楽や芸術に触れても、私のことを幸せに出来るのは結局私自身なのだと思い知った。
なので「もう知らん!!私は私のためにだけ生きる!!!!」という極端な結論で存在価値という呪いを解くことに成功し、私の人生の目標は「いい感じで死ぬこと」になった。
「他人の期待に応える」ということは私が私に課す義務ではなくなった。

将来の具体的な夢や希望が描けないのは変わらない。
でも「いい感じで死ぬ」ためにやることは明確に分かっていて、それはその時の自分の気持ちを大切にしていくことだと思う。
私がいつ死ぬのかなんて誰も知らないことで、もしかしたらそれは3秒後かもしれない訳で、そんな中「いい感じで死ぬ」ために排除しなきゃならないものは後悔とかそういうものだろう。
だとすると瞬間の自分の気持ちを大事にするのは当然のこと。

そう考えると私がブログを書くのも、自分の気持ちや考えに向き合いたいってところに理由があるのかもしれないな。

新曲《衝刺》について感じたこと

2022/04/06 熊猫堂《衝刺》がリリースされました。

良い曲ですよ。良い曲なんですけどもツボにはハマらないな…っていうのが正直な感想です。
メンバーの歌声が映えるし「聴かせる」って感じのキレイな曲です。

他人の表現を借りてしまうけれども「これはニューノーマルか?」と考えるとちょっと首をひねってしまう。
歌詞のメッセージもよく言えば普遍的だけど、悪く言えば手垢のついた表現じゃないか?と思えてしまう。

とはいえ(幅広い人に聞かれそうとかそういう戦略的な部分も含めて)こういう曲も必要なんですよね…。
メッセージ自体がどんだけ使い古された内容だとしても「誰が発信するか」によって「誰にどれほど深く届くか」って変わるものですし。
なのでこの曲が護符になる人もいるんでしょう。
でもそれは私ではない。

今回はなんかちょっと期待してた感じじゃなかったなぁと感じますが、まぁでも推し続けてたらこういうこともあるよね〜ってことで今後に期待しときます。

2022年3月

世界情勢が大変なことになってきたのを否が応でも感じてしまいます。
今はロシアとウクライナが…ということですが、この混乱がどこへいくのか(どこまで拡大するのか、どこかへ飛び火しないか)という不安を抱えつつ、まだ何事も起きていない私の身には普段通りの生活があります。

これは最近考えていることなのですが、平和ボケとは平和の脆さを知らないことなのかもしれません。
自分に恐怖と死が降りかかってくる時なんて本当は考えたくないことですが、何もせずとも維持出来る平穏なんてものはないのだと思うのです。

私が今怖いと思っていることは日本と推しの国との間で戦争が起きることです。
この話が私がナーバスすぎるということで終わればとても良いのでしょうが、全く非現実的な想像でもないと考えています。
もしそうなったら彼らの身の安全は守られるのかという疑念もあるし、もちろん私自身も生きるために何かしなきゃならなくなるでしょう。
そこまでの事態にならないとしても、あるいは無事に生き延びられたとしても、私たちは敵国の人間同士になってしまいます。私たちの中にそんな意識がなかったとしても外部から見ればそうなるのです。私はそれがとても怖い。

私ひとりに出来ることなんてとても小さなことで、すぐに何かを変えられるほどではないと自覚しています。
でもだからといって何もしない訳にはいかないし、何かしようとするのを冷笑するなんてもってのほかだと思うのです。
自分にやれることを考え続けなきゃいけない。
愛是最高級的反駁

発作的に花組公演『BUND/NEON 上海-深緋の嘆きの河』の話をするよ

急に観たくなって宝塚歌劇団 花組公演『BUND/NEON 上海-深緋の嘆きの河』を観ました。

ざっくり内容を紹介すると
舞台は1930年代の上海。そこへスコットランドヤード捜査官・クリストファーはある迷宮入りした事件について調べるためにやって来る。その事件とはクリストファーの恋人とその両親が誘拐され殺された事件だった。
事件の真相を追ううちに青幇(チンパン)(アヘンの密売やらなんやらを資金源にして上海の裏社会で勢力を誇った秘密結社)から狙われたり中国共産党地下組織と接触することになったり…って感じです。

この作品、リアタイで見れたわけではないのですがとても好きな作品なのです…。

望海風斗さま演じる劉 衛強(リュウ エイキョウ)の魅力がすごいのですよ。
彼は青幇の一人でクリストファーが調べてる事件のキーマンなのですが、その事件がきっかけで虫一匹殺せないようになってしまいます。それは青幇として生きるしかない彼にとって致命的なことなんですよね。
殺しはしたくないのだけど、青幇のボス・杜 月笙(ト ゲツショウ)の命令に逆らえば自分や大事な幼なじみの身が危ない…そんな苦悩の中を振り絞るように生きてる劉がかっこいいのです。自身の感情を必死に抑えて人を守ろうとしてる姿は胸が苦しくなるほど切ないのです。

好きな登場人物で言えば花野じゅりあ様演じる芳 玉蘭(ホウ ギョクラン)です。
杜 月笙が牛耳るキャバレー的なお店でダンサーとして働く女性…かと思ったら実は青幇の動きを探るために潜り込んでいる中国共産党地下組織の闘士というキャラクターです。
艶やかなドレスで踊るダンサーから一変して、軍服姿でビュンビュン鞭を鳴らす様が本当にカッコよくて…部下にしてくださいませ何でもいたしますと跪く勢いです(個人の嗜好です)

宝塚歌劇が好きですと宝塚ファンではない人に言うと大抵男役さんの話題になりがちで、宝塚の特異点なのでそうなるのは必然かと思います。でも私は娘役さんも男役さんと変わらない熱量で好きなのです…特にカッコよくて強めな娘役さん大好き…。

『BUND/NEON 上海』内容が内容だけに結構ハードというかエグいなぁと思う場面もちょくちょくあるのですが、そういうのも重厚感があって好きなのです。
あと杜 月笙は実在の人物だったと知って調べてるうちにあの年代あたりの歴史も色々掘ってみたくなりましたね…。

こちら配信でレンタル出来る作品なので興味あればご覧下さい〜。拜拜👋

Amazonビデオ

GyaO
https://gyao.yahoo.co.jp/store/title/373013

楽天TV
https://tv.rakuten.co.jp/content/224115/

推し活に関する小言

これあくまで私の思いなので異論も反論も「へぇあなたはそういう考えなんですねわかりました」って感じで受け付けるんですが、アイドルの応援ってお金を注ぎ込むことだけではないと思うのです。

もちろん仕事としてやってる以上儲けが出せるのってめっちゃ大事ですよ。彼らだって霞食って生きてるわけじゃないですから。
でも儲かるからってだけじゃアイドル続けるのって無理だと思うんですよ。
彼らは多分私達の想像以上にハードなことしてるでしょうし、私達が想像出来ないしんどさもあるでしょうし。その辺りの苦しみって仕事だからってだけじゃ割り切れないところじゃないかと思うのです。

だから彼らに「好きだ」と言い続けること「応援してる」と伝え続けることが、ファンが出来ることのなかですごく大事なことなのではないかと私は考えています。

ただ、これも言うほど簡単なことでもないでしょう。
終わりが見えない上に自分に見返りがあるのか分からないことをし続けるのは、楽しいと思ってやってるつもりでも不意に苦しみの芽が出てきてしまうのです。
人間だからどうしても欲や願望を持ってしまうし、それを持ったことで更に新しい苦しみが生まれることだってあります。
一度そういう状態に陥ると以前の状態に戻すのってなかなか難しいので、本当は悪い芽を早いうちに詰んでおくのが良いんですが、そもそも芽が出てるのに気づかないことだって多いわけです。
欲を捨て執着を断つだなんて仏教の修行のようですが、自分自信のなかで適度にそういう処理をしないと推し活は苦しいままになってしまいますし、なにより続けられないのではないでしょう
か。


我が推しである熊猫堂ProducePandasの日本デビューアルバム、『emo』が発売されてから1ヶ月ちょっと経ったのですが、特典や抽選プレゼント応募用のシリアルコードが付いているためかやはり何枚も買う人がいるのは事実だし私も4枚買ってます。

複数枚購入した人が「売り上げに貢献した」と思って満足感を得るのは別に良いと思います。
ただ「自分は○枚しか買ってない…」と引け目を感じる人がいるなら、更に言えば自分は大した推し活は出来てないと思ってる人がいるなら、それは違うだろうと言いたいのです。
そんなしがらみを吹き飛ばすくらい彼らに愛を伝えて欲しいのです。